あとがき


山沢 岳史
Takeshi Yamazawa


文化服装学院 卒業後、フランスへ渡る。

通貨がフランの時代。
Hubert de Givenchy氏の引退と、John Galliano氏の躍進など、私のいた90年代のパリモード界は、躍動感に溢れる時代だったように思います。

当時ウィメンズのモデリストだった私の身元を、パリ・オートクチュール組合が請負ってくれたおかげで、モデリストとして数々のメゾンを渡り歩くことになるのでした。

日本でいうところの修行からのスタートです。
シーチングに線を引かなくても地の目の直角が取れるようになったのはこの頃でしょうか。

仕事に打ち込む日々の中でも、Josephus Melchior Thimister氏のメゾンでのことは忘れられません。
私が担当したコートドレスが、Anna Wintour氏の目にとまり VOGUE AMERICA に掲載されたのです。1998年のことです。

ちょうどこの頃からでしょうか。ウィメンズに技術的な限界を感じ始めていた私は、「メンズをやらなければ、この壁は超えられないのでは?」と密かに思っていました。でも、この時は確信がなかったのです。

月日は流れ、2000年。

そんな私の背中を押してくれたのが HERMES社の求人でした。メンズのモデリストをウィメンズで採用するというのです。「やっぱりメンズには何かある。自分もこの壁を超えてみたい。」確信に変わった瞬間です。
当時、パリにメンズのイメージがなかった私は帰国を決意したのでした。


帰国後の11年間は、国内外問わず多くの巨匠達に師事する機会に恵まれました。
本格的なメンズテーラードの世界に入っていった期間です。この間、モデリストとしてデザインとパターンを一貫して担当し、機屋から縫製工場まで出張しながら物作りをしていました。ここでの経験が今に生きているのは言うまでもありません。

その当時は、行く先々に職人肌の工場長がいました。
「こんなの作れるか!」「出直してこい!」何度怒鳴られたことでしょう。
残布と空いてるミシンを借りて、現場で部分縫いを作って説明したものです。私が縫っているんですから、当然きれいに仕上がっていません。それでも工場長は「分かった。あとは任せておけ。」と言ってくれたのでした。

後日、私の手元に届いたトレンチコートは、それはもう素晴らしいものでした。
こうやって私は現場で鍛えられながら成長してきたのだと思います。


2011年に独立してからは、デザインからパターン設計までの洋服作りの全般を一貫して行うスタイルのまま、数々の企業の商品企画に携わってきました。


2016年秋冬シーズンより TAKE & SONS をスタートさせ、現在も奮闘中。